個人的な、活字についての一考察
文字を読まずして文字を新たに生み落とすことはできないというのを、本能がよく理解しているらしい。
ほとんど何も制限なしで自由なお題についてうん千字、という課題に、ここ数日ひどく頭を悩ませている。課題である以上、適当に、それこそ この日記に投げるように書き殴るわけにもいかない。無茶なのではないか、どうしたものかと唸るうちに、とある本のことを思い出して、ダンボールの山の奥底から引っ張り出してきた(不幸なことに、今の下宿先は本棚を並べるスペースに恵まれず、実家から運ばれてきた本達がそのままダンボールの中で眠っている)。
『図書館の魔女』シリーズである。
随分と昔に読んだ本なので詳細な紹介はできないが、いわゆる長編ファンタジー小説である。ただ、「いわゆる」と書くと語弊があって、とにかく文量が凄まじい。具体的に何字という値をすぐには挙げられないが、かのチャート式やフォーカスゴールドの問題編・解説編を合わせた厚さと肩を並べそうな物量の単行本、と言えばなんとなくイメージがつくだろうか。ちなみに単行本版では『図書館の魔女 上・下』と続編の『図書館の魔女 烏の伝言』で計三冊が刊行されている。ちょうど、数学ⅠA、ⅡB、Ⅲといったところ。
朧気な記憶を辿って、敢えて平凡そうな表現をするならば、ボーイミーツガール。ただ、主人公らはある国家の外交における重要人物であり、各政府期間の思惑が複雑に絡みながら進む物語には青春のせの字もない。続編の烏の伝言では、うってかわって市井の人々が物語の主となる。が、やはり背景に国家間の外交にまつわる重々しさが影を落とす。続編の終盤ではよくある「前作主人公が満を持して登場」するシーンがあり、シリーズファンとしては喜びを禁じ得ない。
「剣でも、魔法でもない、少女は"言葉"で世界を拓く。」というコピーが、魅力を簡潔かく的確に表現している。興味のある方はぜひ……と言いたいところなのだが、なんせ常人に読み切れる量ではないので、はなから布教を諦めてしまっているというのが本音。チャート式はちょっと……という人には、文庫本版をおすすめする。電子書籍は……正直言って無理があるような。
当時中学生の自分が、学校の図書館の新書棚からこのコピーを見つけて読み進めたのが始まり。今手元にあるのは、後々どうしても手元に単行本を置いておきたくなった私がフリマアプリで迎え入れた古本である。どうやって当時これを読み切ったのかもうわからない。おそらく、毎朝時間割上に設けられていた読書タイム(二十分間全校生徒が読書をするとされていた枠)を使っていたのだろうが、明らかにそれでは足りないので、通学の電車で開いていたのかもしれない。そう、大学に進学してから全く本を読めなくなった要因のひとつとして、電車通学という概念の消滅が挙げられるだろう。もっとも、あの都会の電車の混雑具合で落ち着いて紙の本(なんと言っても実質チャート式である)を開くことが可能なのか疑問だが。
文字を書くにあたって、終始"言葉"について語られているこの本に思い至ったというわけだ。ぱっと見難解な地の文の記述を、ただひたすら追うという素朴な行為に面白さを覚えた記憶があったので、はたしてどのような文章であったかなと。
……と思って、気がついたら読み込んでしまっていた。恐ろしい。上手く表現できないが、各々が長い段落の地の文を丁寧に追うことで初めて人々の動きが思い浮かぶ、視界が開けるかのような感覚が芽生える瞬間が面白くて、つい読み進めてしまう。文の構造を追うつもりが身が入らなくて困る。
紙の本ならではの楽しみのひとつは、くじ引きのつもりで適当にぱっとどこかのページを開いてそのまま読み始めること。今日巡り合ったのは、下巻の、主人公の少女が隣国の君主と談笑するが、それが二国間の対立要素に抵触しそうな内容で周りの付き人が肝を冷やす(しかし無事こともなく終わる)という、くすっと笑えるシーン。さらに、ついさっきまでこの作文を阻害していたのは、上巻の序盤の、図書館に新たに遣わされた少年に、少女が図書館の司書とは何たるかを説く壮大な導入シーン。
数年ぶりに触れた、大筋を一ミリたりとも記憶していない物語なのに、すんなり受け入れられたことに驚く。この受け入れるというのは、私がこの本を読むという行為を昔と同じようにやってのけたというのではなくて、数年放置し続けていたこの本が昔と変わらず私に読み進める面白さを提供してくれた、という意味で。思えば本というのは時間が経っても中の文が別物に化けるものはなくて、本がこちらに語りかけてくる内容それ自体は時間という概念から切り離されているので、あとは読み手がそれをどう感じるかというだけのこと。
この独特の懐かしさ。それとなく、「故郷」という言葉を想起させる。数年ぶりに帰ってきて、陳腐な表現だけれどもそれこそ文字通り実家のような安心感。私の出発点は、ここにあったのだ。
今となってはもう遠い昔、つい忘れてしまいがちだが、自分は昔よく本を読んでいた。なにもいきなり『図書館の魔女』を読破できたわけはなくて、長編ファンタジー、それも特に骨太なのをよく好んでいた。
始まりは『獣の奏者』だったように思う。アニメ放映がきっかけなので、最初に読み始めたのは小学三年生の頃か。その後、小学校と中学校の図書室/図書館に頼りながら『精霊の守り人』シリーズを読破し、『図書館の魔女』と並行して『鹿の王』にも確か触れたはず。ぶっちゃけこのレベルの長編ファンタジーにはなかなか巡り会えないのでシリーズ名を例示できるのはこれくらいだが、他にももう記憶にすらない本をたくさん開いて閉じてしてきたはず。
図書室/館に行けば思い出せるのかもしれない。自分は足繁く通う棚の蔵書の位置を覚える質で、今でも小学校の図書室と中高(一貫校である)の図書館でどの位置に守り人シリーズが並べてあったかすぐ目に浮かぶ。読んだことのある本、開いたけれど途中で断念した本、気になってはいるが手をつけられていない本。すべて二つの蔵書群の位置と紐付けられて記憶していたので、現地を再び歩く機会があればもっと多くの書名を列挙できるように思う。
もうほとんど記憶にないが、特に小学校の図書室は私にとって居場所のひとつであった。小五、六と図書委員(長)を務めた私は、週に二度ほど休憩時間中の図書室の主をしていたはず。何かを読むのもそうだが、棚を見て回っていろんな本の存在を知るのがとても楽しかった。中学でも、かの読書タイム用の本を拵えるために、昼休み中よく図書館に足を運んでいたはず。
小学校も、中学・高校も、どちらかと言えば嫌な思い出のほうが多くて、とてもとても帰りたいなんて思う場所ではないのだが、図書室/館はどうやら例外であるようだ。それどころか、自分は地元という概念が嫌いで、わざわざ18年間のすべてを振り切るために遠い大都会の学校に進学したくらいには帰りたいという感覚がないわけだが、図書室/館はそれを遥かに飛び越えて「故郷」という概念と直結する。私にとって帰るべき場所があるとするならばそこである、と思う。他の趣味にうつつを抜かして、数年ぶりに帰ってきても変わらず微笑んでくれるところが、特に。
そろそろ、課題について言及しなければならない気がしてきた。言うまでもなく、既にうん千字生み出しているであろうこの労力を、なぜ課題に割けないのか。
ものを生み出すときに、一種の衝動が必要であることが、よくある。自分の場合、文章を書くのと、絵を描くのとに、何かしら情緒的な強いきっかけが要る。絵についてはここでは割愛するとして。
私が文章を書くのは、頭の中での語りを手で書き起こすことによって実現する(前にも別の記事で似たことを書いたかもしれない)。自分の脳内には常に言葉が流れていて、それは音のようであって音でない、文字のようであって文字でない、不思議な形をしている。それを繰り返し丁寧に流して、聴き取って、上手いこと日本語に翻訳することによって、作文という行為が成立する。逆に、何かを書くには、目的のものごとに対して、何かを語ることのできる状態でなければならない。
その語りを生み出す衝動が、読書である。活字を黙読すると、語りは活字の内容を復唱するのに傾注する。しばらくしたのち、活字から目を離すと語りが始まるわけだが、それは先程までの傾注に引き摺られて、活字に似た響きをしている。いつになくかしこまってものごとを形容する語を並べたり、語末を丁寧に常体で揃えていたりする。これがとても書き起こしやすい。普段なら、この活字に似た響きを聞き流して、独特の音?を楽しむにすぎないのだが、実際にすべて書き起こしてみようと試みた結果がこの長文である。
自然に生まれた語りを書き起こすのは難しくない。普段のツイートがそうである。対して、ある課題に対して文章を書こうとしたとき、私はその課題に適した形式の語りを生成しなければならなくなる。もしくは、ふわふわと生まれた語りを課題に適した形式に翻訳するのに、かなりの労力を費やさなければならなくなる。これは面倒だし、やりたくない。今回は特に、何もお題がない課題であるから、無から語りを(しかも課題の解答にするのに適したものを)生み出さなければならない。これは、数日試みて改めてわかったことであるが、全く簡単ではない。
だから、この場でつらつらとうん千字を生み出せるからといって、同じ力で課題をほいと終わらせることが可能なのではない。この課題が何であるかを詳しく知っている人間は、おそらくこの長文がそろそろその課題の文字数の要件を満たしそうであるのを察しているのではないかと思うけれど、当然別の要件を満たしていないし、そもそもかなり個人的なことであるので私が課題の解答として公表したくない。あくまで、なんでもない語りの書き起こしはなんでもない語りの書き起こしであるし、何らかの主張を伴った文章ではないし、ただのとりとめのない独白にすぎない。
一度語りを全部書き起こしてみようという思いつき以外にも、この長文を書こうと思った理由はある。それは、やはり文章を書くためには文章を読む必要があって、私は自ずとここに戻ってくるのだという気づきを、書き留めておく価値があると思ったからである。
脳内の語りが活字に似た響きをするのは、おそらく幼少期の私が多量の活字に触れていたからであろう。この点で、随分と詩的な物言いだけれども、文章を読むという行為は私の生まれ故郷なのかもしれない。物語を読み進めるときに自然と頬が緩んで、乾いた喉に水を流し込んだかのような潤いを感じるのは、戻ってくるべき場所に戻ってきたからであるように思う。
ただ、たぶん、生まれ故郷というのは、常に居るべき場所とは違う。実は、かの読書タイムというのは中等部のみの概念で、高等部では伸びた授業時間に置き換わってしまう。これに加えて、スマホを購入したのと新しい趣味を得たのとで、私は高校進学とともにぱったり読書をやめてしまった。そのままやれ受験やれ大学進学となって、紙の本を能動的に開いたのがさて何年ぶりかと思うと恐ろしい。が、じゃあ今日の気づきを元に反省してこれからは毎日本を読みます、になるかと言われるとそんなことはない。残念ながら今の私は他の趣味で忙しい。そうでなくても課題で忙しい。いや、忙しいという事実がなくても、今の私に常時本を開く動機があるとは保証できない。
これは個人的な偏見であるけれど、故郷というのは、たまに帰ってくる/たまにしか帰ることができないからこそ郷愁という概念によって飾り立てられ美しいのであって、元々生まれた地に住み続けていても同じ感情は抱かない。乾いた喉に流し込むからこそ水は美味しいのであって、毎秒飲み続けていてもただ無味で不味い。だから、これは言い訳がましいけれど、本は来たるべき時が来るまでは、わざわざ無理をして読むものではない。少なくとも私にとっては。
逆に、来たるべき時は必ず来る、という確信もある。SNSによって構築された、無数の人間との繋がりがふと消えたとき。孤独に文字を書き起こさなければならないとき。発散していく語りを、どこかに留まらせなければならないとき。生まれ故郷の優しさに甘えて、私は我儘に、何年ぶりだろうが素知らぬ顔で、本の扉を叩くのだと思う。ちょうど今日のように。