ただの日記にタイトルなんて要るか

🍳が不定期で日記を書くらしい

13 Feb 2022

自我

2281文字

「自分に関することを書く」というのは、あまりにも広くて抽象的なテーマだ。ましてや、それに「自我」なんてタイトルを付けてしまったら、一体何をどう書けばいいのやら皆目検討もつかない。現に書き出しの時点で難しくてもう嫌になっている。

どうしてそんなタイトルを付けたのかと言うと、そもそも付けたのが私ではないからだ。知人ブログという元ネタがある。

この記事のなんとまあ恐ろしいこと。「自我」と名乗りながらそういえばそういえばと話は二転三転、せいぜい「タグ機能」が新設されたことがわかる程度、自己紹介を予想していた読者全員を爆速で置いてけぼりにしながら呆気なく締められる様はむしろ清々しいと褒めるべきかもしれない。他に比較対象が思いつけないレベルの出来の怪文書なので、この記事に辿り着くような物好きには是非目を通していただきたい。もし読む気が起きないのなら別に他のことに時間を使ってくれていいし、別にこの日記自体も読まなくたっていい。

この例は明らかに筆者が不思議な人なわけだが、さりとてもし自分が「自我」について何かしらを書くとしたらどうなるのか? というのを試してみようと思う。「自我を規定するものってもっといろいろあるよね」と呼びかけるのなら、文中にてその例を提示するのが礼儀であろうから。


とは言いつつも、改めて自分についてなにか書くことがあるのかと言われると難しい。というのも、この場を用いて私が書いているのは常に自分に関することだからだ。過去の記事を探ると、とんでもない文字数で読書と作文について語り散らしていたりしゃべるのが苦手なのをぐちぐち言い訳していたりいにしえの思い出を振り返ったりしている。

そもそもこの場は自分が常日頃ぼやく独り言を拾って他人にも読めるよう整形しているだけで、その独り言の聞き手というのは当たり前に自分であるから共通の話題なるものは当然自分自身についてで、そのことばかり話すに決まっている。

ただ、自分に関することを並べ立てて、はいこれが私の自我です! というのは、なんだかしっくりこない。では自我とは、自我を規定するものとは、一体何なのか。……ちょっと哲学的すぎないか? あまりそちらの方は明るくないので、適当に書いていると墓穴を掘りそうだ。そういえば小さい頃「墓穴」を「はかあな」と読んでいた時期があったなあ。

自我を規定するもののひとつとして、「記憶」が挙げられないだろうか。ある経験を、まさしく自分が経験したと記憶していること。「墓穴」という文字列を見て、かつてそれを「はかあな」と読んでいた過去の自分を、他でもない自分の経験として記憶していて、誰に言われるまでもなく自らふと思い出せること。この記憶の積み重ねがやがて過去の経験の字引として機能するようになり、ひとつの情報群として作動し始める。これを自我と呼ぶのではないか。

きっと私以外の何人たりとも、私と同じように私の書いた日記の内容をするすると思い起こすことはできないはず。この私のみに許された私に対する記憶が私を私たらしめていて、これを自我と呼ぶのではないか。知らんけど。


元ネタを丁寧に読んでくださった方なら既にご存知でしょうが、私からのコメントが取り上げられています。一つ前の記事が、ほとんど「hogehogeので、fugafuga。」という構文で構成されている、というもの。ちなみに「hogehogeけど、fugafuga。」の出現頻度もすごい。

ほかにもあのブログの特徴はいくつかあって。「自我」記事でさらに露呈したのは、前後の繋がりの薄さでしょう。まず、章ごとの話題に関連がなさすぎる。自己紹介をしようと言った次の段落で近況報告を始めるとは何事。

個人的に気になるのは、段落間の関連の薄さ。私は手癖と性癖とで、前の段落の内容を暗に引いてくることが多いです。例えば、先程唐突に上げた「はかあな」を次の段落で例に出していたり、数段落前に過去の記事について振り返ったのをもう一度触れていたり。こういう前後の接続が、あのブログには一切ないわけです。

もちろんこれに関しては内容が前後するこちらの日記の方が異質なんでしょうが、それを差し引いてもあのブログは過去を振り返らなさすぎる。さっきも書いたとおり、最初にある疑問(自我について)を述べたのなら、後でもう一度同じ話題に触れたっていいはず。ところが二度と同じところに戻ってこない。

あの筆者、もしかしなくても数分前に自分が書いた内容全部忘れてるんじゃないですかね。1, 2ツイート分、せいぜい300字が限界で、それ以前の内容は記憶に残ってない。そうでなければ、「生い立ち」と書いたのを忘れて電子工作の話を始めたりなんてしないでしょう。

「記憶」が薄すぎて、自我が感じられない内容になってるんじゃないかなと思うんです、あの記事。


そういえば、かねてから練習していた親指シフトでの寿司打のスコアがちょっと伸びました。うれしいね。

とりとめのないこの日記も、親指シフトの練習を兼ねて書いています。内容を考えながらだと精度が落ちて大変。


だらだら書くとどんどん長くなってしまうのは悪い癖。彼のように、さっと締められるようになりたいもの。

今日はこれくらいにしておきましょうか。